鎌倉宮について
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御祭神

  • 主祭神

    大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)

  • 摂社

    南方社 御祭神 : 持明院南御方(みなみのおんかた) 
    村上社 御祭神 : 贈従三位左馬権頭村上彦四郎義光公

  • 例祭日 : 八月二十日(護良親王の命日にちなむ)
    本殿 : 神明造
    社紋 : 山桜

御祭神

御由緒

主祭神

大塔宮 護良親王

護良親王(もりながしんのう)は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になりました。

6歳の時に京都の三千院にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、天台座主となられます。

当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。

しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐に配流となります。

親王は還俗して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。

この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。

後醍醐天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となられます。

しかし尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。

ところが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺の土牢に幽閉されます。建武元年(1334年)の11月15日の事です。

建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた尊氏の弟、足利直義は逃れる際に、家臣 淵辺義博へ親王暗殺を命じました。

義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨じられました。

明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。

親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられました。

なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされました。
お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。

比叡山延暦寺に入室

比叡山延暦寺に入室

ご潜幸の笠置に戦う

ご潜幸の笠置に戦う

鎌倉に護送される

鎌倉に護送される

土牢の親王と虐刃

土牢の親王と虐刃

南方社(みなみのかたしゃ)

御祭神

持明院 南御方

南御方(みなみのおんかた)は持明院中納言 藤原保藤卿の御息女です。

親王の鎌倉ご幽閉に随行され常に身辺にあって、真心込めて御身の回りの御世話をなされ、親王の御心を慰められました。
親王のご最期にあたっては、理知光寺の長老と共に丁重に弔いをされた後、上洛し後醍醐天皇へ親王のご最期の仔細を報告されました。

南方社(みなみのかたしゃ)

村上社(むらかみしゃ)

御祭神

贈従三位左馬権頭 村上彦四郎義光公

村上義光公(むらかみ よしてるこう)は護良親王の忠臣であり、常に親王に近侍して辛苦を共にされ、また一騎当千の豪勇で親王の危機を幾度となく救われました。

吉野落城に際しては、もはやこれまでと覚悟を決められた親王をお諫めし、身代わりとなるべく親王の鎧直垂を着用して、腹十文字に掻き切って壮烈な最後をとげられました。

明治四十一年、真に至誠純忠の勇士として従三位を追贈されました。

村上社(むらかみしゃ)